養老先生の本はいつも痛快で、素敵だ。
高校生の頃に、『唯脳論』を読んだとき、
考えていたモヤモヤが、すっきり晴れたような感覚になった。
養老先生の考えは、「脳は見たいものしか見ない」である。
この本の中で、おもしろかったのが、
2.「自分の問題」という章である。
英語は、「I」は「私」自分自身を指す言葉だ。
自分とは何か?自分探しが昨今よく聞かれる言葉だが、
その考えのもとには、肉体は自己ではないという思い込みがある。
これは、キリスト教の世界では当然と養老先生はいう。
霊魂は不滅だという考え方をとると、肉体を自己と考えると不都合が生じるから
心身二元論になる。
そもそも、自分というものの捉え方が日本人と西洋人で違う。
かつての日本人(明治以前)の
「I」は「私」は違う意味をもっている。
関西では、相手のことを「自分」という。
ここからわかるのは、己と相手を同一と見ているということだ。
時代劇で江戸の商人が自分のことを「手前ども」という。
これが、下町のけんかになれば「てめえ(手前)、このやろう」となる。
日本語では、根本に、自他に区別に対する無意識の本質的確信がある。
それは、簡単にいえば、いちいち認識しなくても
自分というものはいるのだということを確信をもっているということだ。
だから、自分は自分であるということを一々言わなくてもいい。
短くまとめるとこうですが、深いんですよこれが。
個性、オリジナルを求められる現代ですが、
最初から、個性を出そうとか、オリジナルだとか、自分らしくなんて
自分の息子には絶対に求めないつもりだ。
だって、自分自身が生きていることが、オリジナルなんだから。
仕事でも、趣味でも思うが、最初は「物まね」から始まる。
で、そこで、どうしても「物まね」できない所や、
ここは、お手本とは違う方向でやろうとか
試行錯誤していくことで、その人その人の
「オリジナル」が出てくる。
それで、いいんだと思う。